• メニュー
  • メニュー

Tag - 百済歴史遺跡地区

百済歴史遺跡地区

扶余官北里百済遺蹟

扶余官北里遺蹟

プヨ市内の北側にある扶蘇山城(106メートル)からプヨ市内へ降りたところに百済サビ時代(泗沘、今の扶余、538~660)の王宮跡だと推定される扶餘官北里遺蹟があります。多年間にわたる発掘の結果、7間×4間に東西の長さ35メートル、南北の長さ18メートルに達する大規模の建物跡、首府名の瓦、南北・東西方向の道路、排水路、池、地下倉庫、石垣施設などの遺構が確認され、百済の王宮を把握するのに貴重な研究資料になるといわれています。 2015年、百済歴史遺跡地区の一か所としてユネスコ世界遺産になりました。 基本情報 スポット名 扶余官北里遺蹟 住所 忠淸南道 扶余郡 扶余邑 官北里...

扶余羅城

扶余羅城

こんにちは、百済の首都、泗沘(サビ)を保護するために自然地形を利用して扶余の外郭をめくらせた土の城壁です。百済の聖王(24代、523~554)のときに築城されたという扶余羅城(プヨナソン)は、扶余市内にある扶蘇山城から約300メートルほど離れたところにある靑山城(チョンサンソン)と繋ぐ北側と、そこから百済王と王族の王陵がある陵山里古墳群(百済王陵園)を通り過ぎ、錦江の白馬江まで続く東側を保護するための6.3キロくらいの城壁です。...

扶蘇山城

扶蘇山城

プヨ市内の北側にあり、遊覧船が通う白馬江(白村江)の川辺にある小高い山・扶蘇山(106メートル)に造られた百済時代の山城です。扶蘇山城は、538年、百済の26代の聖王が熊津(ウンジン、今の公州)から泗沘(サビ、今の扶余)に都を移した後、660年、百済が滅亡するまで123年間、百済の都だったところで、当時はサビ城と言われました。城内はゆっくり散策ができるように綺麗に整備されおり、落花岩(百花亭)、三忠祠、半月楼、軍倉址、泗泚樓、皐蘭寺、迎日楼などの文化財があります。 2015年、百済歴史遺跡地区の一か所としてユネスコ世界遺産になりました。 基本情報 スポット名 扶蘇山城...

王宮里遺跡展示館

王宮里遺跡地・王宮里遺跡展示館

益山彌勒寺 (ミルクサ) 址から約6キロくらい離れている王宮里遺跡地は、百済王室と直接関わりのある百済末期の武王時代に造成された重要な王宮址として知られています。 国立扶余文化財研究所により、1989年から発掘調査をはじめて、現在も盛んに発掘している王宮里遺跡地は、南北490余メートル、東西約240メートルの規模の長方形の石築の城壁の内側に大規模な建物の跡、庭園、工房、トイレなど様々な遺構が出土され、王宮里という地名のように百済時代の王宮またはそれに相応しい関連施設があった場所ではないかといわれています。 高さ8.5メートルの王宮里5重の石塔と発掘現場...

益山弥勒寺址の韓国最大・最古の石塔

益山弥勒寺址

韓国最古であり、韓国最大の石塔がある百済の益山弥勒寺址 こんにちは、百済の最後の王都だった扶余を囲むように流れている白馬江から南方へ約31キロほど離れた場所に位置し、百済後期の遺跡が多く残されている益山市の彌勒寺址は、百済第30代王武王(ムワン/580~641年)によって建立された東西260メートル、南北640メールの韓国最古であり韓国最大の石塔があるお寺です。 益山彌勒寺址は、弥勒寺址遺跡展示館と書いてある正門を入って進むと真正面に弥勒寺址遺跡展示館があります。...

公山城

公山城

538年(聖王16年)に百済の首都を扶余(プヨ)に移すまでの5代、64年の間、百済の都だった熊津(ウンジン・現在忠清南道の公州(コンジュ)市)を保護するために築城された公山城(コンサンソン)は、海抜110メートルの公山の頂上から西の峰まで取り囲むように造られた包谷式の山城です。 お城の周りの長さは2450メートル、東西約800メートル、南北約400メートルで、東西南北に石壁が残っていますが、築城当時は土城だったのですが、朝鮮時代に現在の石城に改築されて今まで至っています。...

扶余陵山里古墳群 / 百済王陵苑

扶余陵山里古墳群 / 百済王陵苑

扶餘陵山里古墳群は、扶余市内から東へ約3キロくらい離れた百済泗沘(サビ)都城を敵から防御するために築造された羅城の外側にある百済王族の古墳群です。 入場料を支払って陵山里古墳群の正門に入り、右側へ行くと昔ながら泗沘(サビ)時代(538年~660年)の百済王族が眠っている陵山里古墳群が目に迫ります。 扶余陵山里古墳群 / 百済王陵苑 古墳は、陵山里山の南方の傾斜面のふもとに前後2列に3基ずつ並び、その上に1基があって、全部7基が残されています。古墳6号までは日帝時代に調査されましたが、7号は1971年補修工事中に偶然に発見されました。...

扶余定林寺址

扶余定林寺址

扶余郡の中心部にある定林寺址は、百済が扶余に都を移した泗沘百済時代(538年から660年まで)に建立された百済時代のお寺です。 定林寺址には、益山の彌勒寺址石塔とともに百済時代の代表的な石塔といわれる高さ8.33メートルの定林寺址5重の石塔と高麗時代の石仏坐像を保護するため、1993年に建てられた切妻屋根の木造建物と蓮の池があります。 優雅な美しさを披露するように立ている定林寺址5重の石塔には百済滅亡に纏わる話があります。660年新羅と中国の唐の連合軍によって百済の泗沘都城の扶余が陥落され、百济は幕を閉じるようようになりました。...