2019年5月20日
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朝鮮時代

東萊邑城

朝鮮時代東莱府の行政の中心地を城壁で囲んだお城であり、文禄の役が勃発すると、日本軍の1次攻撃目標になって東莱城の戦いが繰り広げられた激戦地  1972年6月26日、釜山広域市記念物第5号に指定された東莱邑城は、朝鮮時代・東莱府の行政の中心地を城壁で囲んだ朝鮮時代のお城です。周囲1.9キロに至る東莱邑城は、忠烈祠の裏山から馬鞍山(マアンサン)を経て東莱郷校の裏山まで続く丘陵地と、現在の東莱中心地・東莱市場までの平地を一部含んだ典型的な平山城です。山城と平城の利点を揃った韓国の代表的な邑城です。 復元された東莱城の北門と城壁、そして築城当時の石垣が残っています。...

東萊邑城壬辰倭亂歷史館

2005年4月、釜山都市鉄道4号線の壽安駅(スアンヨッ)建設工事現場で東莱邑城の堀が発見された後、2005年7月から2008年8月まで5回にわたり発掘調査を行われ、堀で壬辰倭乱の時に東莱城の戦いで犠牲された約100人前後の人骨と様々な武器などが出土されました。2011年1月28日「東邑城壬辰倭乱歴史館」をオープンしました。...

上黨山城

忠淸北道 淸州市内と隣接する山の頂上を石垣で取り囲む上党山城(サンダンサンソン)は、面積は約22万坪、総延長4.2キロにも及ぼす大規模の石垣の山城です。また、上党山城の名称は、三国時代の淸州地域が百済の「上党県」と呼ばれていたことに由来しています。 百済時代に土城として築かれたと伝わる上党山城は、三国史記に金庾信の三男・キムソヒョン(元貞公)が西原述城を築いたという記録があり、その後、朝鮮時代の宣祖29年(1596)に文禄・慶長の役の際に改修し、18世紀には石城への大々的に改築工事などが行われ、今まで至っています。...

表忠寺

表忠寺

慶尚南道 密陽市(ミリャンシ)から東方へ20キロ離れた載薬山( チャヤッサン、海抜1108メートル)の南麓に位置している表忠寺(ピョチュンサ)は、もともと新羅時代の武烈王(654)の時に創建され、当時は竹林寺と称されましたが、1592年に勃発した壬辰倭亂(文祿・慶長の役)の際に活躍した四溟大師を称えるために表忠寺と名を改めて今まで至っています。...

聞慶セジェ道立公園

聞慶セジェ道立公園

慶尚道とソウルを短距離で結ぶ李氏朝鮮時代の峠道に多くの観光客が訪れる こんにちは、釜山とソウルのほぼ真ん中にある聞慶セジェは、李氏朝鮮時代に嶺南地方(慶尚道)と漢陽(ソウル)を短距離で結ぶ嶺南大路の道として、重要な位置を占めていた峠です。1592年4月13日、釜山港に上陸した豊臣秀吉軍もこの聞慶セジェを超えて漢陽へ北上したほど昔から軍事的な要衝地でもあり、今は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)後に築城された3つの関門が歴史を物語っています。 第一関門の主屹関から第二関門の鳥谷関、第三関門の鳥嶺関まで続く約6...

朝鮮通信使歴史館

朝鮮通信使歴史館

17世紀から韓日の文化交流を担っていた朝鮮通信使の業績を振り返ってみる朝鮮通信使歴史館が2011年4月21日子城台公園の敷地に開館しました。 通信使の「通信」というのは現在使っているような意味ではなく、「信じる気持ちで相互交通」するという意味でした。韓国から日本に向かった通信使のことを日本では「朝鮮通信使」と呼び、その後、通信使の訪日は1607年から1811年まで計12回に及びました。 通信使は韓・日間の緊張関係を交隣・善隣友好思想を基にし、両国民の平和的関係を維持させた公式的な外交使節団であると同時に、先進文化の伝播と交流の文化施設団でもありました。  1F ...

慶州郷校

慶州郷校

慶州校村韓屋マウルに位置する李氏朝鮮時代の儒学を教えた国立教育機関! こんにちは、新羅千年の都、慶州は、市内に新羅時代の遺物があちこちにありますが、古代新羅の王宮が位置する月城西側には、崔氏古宅と瑤石宮、校銅法酒などの李氏朝鮮時代の建築物が集まっている校村韓屋マウルがあります。 あの校村韓屋マウルの奥には、李氏朝鮮時代の時、東洋哲学者の一人である孔子をはじめとする儒学の先賢たちの位牌を収め祭祀を行った空間と、学生たちが泊まりながら儒学を研究する空間に分かれている慶州郷校があります。...